僕は47歳で発達障害と診断された。
それ以前に、38歳の時に精神科で双極性障害の診断を受けた。以後、途切れることなく精神科に受診をして、転院もしているから、その間に何人もの精神科医の診断を受けたわけだが、誰一人として僕が発達障害だと気づいた医師はいなかった。
それは別にそれら医師たちが手抜き診療をしていたり、無能だったりというわけではなく、発達障害人としての僕が定型発達者のように振舞う能力、つまり擬態能力が高かったからだろうと考えている。
擬態能力が高くなったことについて、僕には思うところがいくつかある。今回の記事では、発達障害である僕の擬態能力がどのようにして高くなったのかについて述べてみたいと思う。
発達障害と疲れやすさについては、以下の記事も参照いただきたい。
はじめに
まずはじめに、僕は擬態能力が高いことが必ずしも発達障害の当事者にとって良い結果をもたらすとは考えていない。なぜなら、擬態することはある意味、本音を偽ってウソをついているわけで「本当はこう思っているのだが…」という気持ちを押し殺すなど「本当の気持ち」を抑圧してしまうことになるリスクがあるからだ。
さらに、正式に診断を受けて「自分は発達障害人なのだ」という気づきを得ていない人にとっては、擬態することで発見と診断が遅れてしまうことにもなりかねない。僕がそうだったように。
無意識的に擬態を行っていると「自分は擬態している」ことに無自覚になってしまう。別の言い方をすれば、とても自然に振る舞えているということだが、繰り返しになるがそれが当人にとって良い結果をもたらすとは限らないのだ。
それを踏まえて、以降を読み進めてほしい。
(1)膨大な数の映画を見たこと
まずはじめに僕が思い当たることは、高校生の頃、10代の後半に膨大な数の映画を見たことだ。僕はASD気質の持ち主でもあるので映画のジャンルについてはとても幅が狭い。何も考えなければガンアクションかSFしか観ない。これらをどちらも満たす映画は「ターミネーター」シリーズなのだが、これはもう何十回、いや百回以上見たかもしれない。
しかし10代の僕は、将来は映画で身を立てると思い込んでいたので修行のためと思ってありとあらゆる映画を観た。本屋で見つけた「20世紀の映画ベスト100選」といった本を買い、その本に載っている映画はほぼすべて観た。たとえば古いフランス映画の「天井桟敷の人々」や「市民ケーン」邦画なら黒沢・小津などの名画と言われる作品だ。正直、あまり気が乗らない作品もあったがひとえに「映画を語るならこれくらいは観て尾かなと話にならない」とでもいうべき義務感から文字通り映画を観まくったのだった。
発達障害人は共感能力が欠けているとはよく言われることだが、僕も自分自身を振り返って大いにうなづける。しかし山ほど映画を観ていると「この場合にはこんなふうに反応するものなんだな」という「共感の型」とでもいうべきものが自分の中に増えてくるのだ。そうすると実生活でも「好反応すればいいのかもしれない」という風に試すことができる。
(2)演技を学んだこと
僕は20代の前半ごろ、演技を学んだことがある。
演劇というものは突き詰めれば虚構だ。舞台上で起こっていることは現実の出来事ではなく役者が演じているお芝居で、作り物だと観客はみな知っているからだ。
身も蓋もない言い方をすれば、俳優における演技の技法というものは、いかに上手に嘘をつくかの技術と言っても過言ではない。舞台上で自分の内面を用いることで、虚構をあたかも真実であるかのように装い、観客を巻き込んで何らかの心的変化を起こす技術体系だ。
困ったことにこれを私生活でも無意識的にやっていると「本当の自分が感じていること」がわからなくなってしまうという危険がある。余談だが、これには、順風満帆に見える将来を嘱望された若い有能な俳優がしばしばいきなり自殺してしまうこととの関係があると僕は思っている。
だから、もしこの記事を読んでいる発達障害を抱える人が、少しでも生きづらさを軽減しようとしてこの記事の内容を実践してみようと思っても、演劇だけには本当に慎重になってもらいたいと思う。
(3)カウンセリング(臨床心理学)を学んだこと
僕は20代の時にカウンセリング(臨床心理学)学んだのだが、これもまた擬態能力を高める上で大きかったと思う。学問としての知識もさることながら、援助者としてのカウンセラーに求められる実践的な振る舞いを学んだことは僕の人生に大きな影響を与えたと思っている。
たとえば、カウンセリングをする際の座り方というものがある。決して相手と正対してはならず、理想型は横並びに座る。どうしても無理なら正対せずに少し斜めになるようにポジショニングする、というものだ。
ほかには、言葉の選び方ということもある。相手の使った言葉と同じ言葉を使う、相手の意見を否定したと受け取られかねない表現は避ける、といったことだ。
だがこれもまた私生活でやりすぎてしまうと、いいことばかりでなく悪いことも起こると思う。
(4) 筋トレ(ウェイトトレーニング)
僕は中学一年の時に筋トレを始めて、一気にのめり込んだ。やめていた時期も多少あるけども、この年になるまでずっと続けてきた。僕が考える筋トレのメリットは以下のようなものがある。
メタ認知の視点が得られる
ここで言うメタ認知とは簡単に言えば「今、自分が何をやっているのか」とか「自分は今どんな状態なのか」に集中するということだ。筋トレをやっている人はおそらくほぼすべての人がこの視点を自然に身につけていると思う。
具体的にメタ認知的視点が発達障害者にとってどのようなメリットがあるのかというと、なんと言っても過緊張からの慢性疲労の軽減があげられる。電車の中でも仕事中でも「あ、顔面が緊張しているな」とか「背中が緊張してるな」などと気がつけるようになり、その部位の緊張を緩めることができるようになる。
僕が現在やっている筋トレのメニューについては以下の記事を参照いただきたい。
おわりに
以上、今回の記事では、発達障害人である僕の擬態能力がどのようにして高まったのかについてまとめてみた。