プロフィールのページにも書いてあるが、僕は発達障害の当事者だ。正式な診断を受けたのは47歳というアラフィフになってからのことだった。
今回の記事では、僕が発達障害の診断を受けるまで、しばしば悩んできた問題である、
「発達障害とサイコパスの違い」
について考察してみたいと思う。今回の記事が「自分はサイコパスではないのか」と悩んでいる発達障害の当事者の誤解を正すきっかけとなれば幸いだ。ただ、僕は精神科医でも国家資格を持った心理士でもないので、あくまで一人の作家の戯れ言として読んでもらえたら幸いだ。
高校生の頃のエピソード(飛び降り自殺)
僕には今でもときどき思い出すエピソードがある。それは人の死に関連したものだ。
高校生のころ、僕は新聞配達のアルバイトをしていた。だから毎日、早朝の3時ごろに家を出て、新聞の販売店に出勤するのが常だった。
その日も同じようにマンションの裏口から敷地の外に出て駐輪場に向かった。
すると、非常階段の近くに、いつもとは違う何かがあった。
女性がうつ伏せに倒れていたのだ。
女性の頭のあたりには血溜まりができており、頭頂部の損傷は赤黒く深く、そのまわりから脳と思われるものがこぼれ出ていた。その女性が死んでいることはすぐにわかった。
半世紀近く生きている僕だが、人間の死体を間近で見たことはこれまでにこの一度限りしかない。多くの人にとってもそうだろう。激しく動揺してもおかしくない場面だが、しかしこのときの僕は何も感じていなかった。
女性が死んでいることはわかったし、自分になにかできることや、すべきことがあるとは思えなかったのだ。それにその女性は顔見知りというわけでもないわけだから、動揺すべき理由がないのだ。
何より発達障害者の僕にとって重要なことは「決められたルーティーンを乱さないこと」なのだ。この場合は、新聞配達のアルバイトが休みの日でもないのだからそのルーティーンを守らなければならないということだ。
そしてぼくはバイクに乗り、バイト先に向かった。いつも通り配達の仕事をこなして帰宅すると、女性の遺体はなくなっていた。何日か後になって近所のたちが、マンションで飛び降り自殺があったと噂しあっているのを耳にした。
この後から、このエピソードはしばしば僕を悩ませてきた。それは「人の死を目の前にしても動揺もせず、バイトに行くという自分の都合を機械的に選択できてしまう自分は、サイコパスなのではないか」という疑問のもとになったのだ。この疑問はアラフィフになり発達障害だと診断されるまで続くことになる。
サイコパスとは何か
まず、サイコパスとは何かについて定義しておきたいと思う。臨床心理学や精神医学にあまり興味のない人にとって、サイコパスという言葉は、まあざっくりいって「邪悪な人」「悪人」「殺人鬼」「関わらぬが吉の危険人物」などといった、極めてネガティブなイメージを想起するものなのではないだろうか。
あるいは、もう少し上記の学問分野に関心のある方なら、サイコパスとは「共感性を欠く」「衝動的に行動する」「他人から搾取することに良心の呵責を覚えない」などの問題行動が目立つ人格、などと答えるのかもしれない。
さらに上記の分野の正規の教育を受けたり、あるいは独学で学んだ人なら「反社会性パーソナリティー障害」という言葉が出てくるだろう。
今回の記事でいうサイコパスとは、この、反社会性パーソナリティー障害(以後、Antisocial Personality Disorder、ASPDと記載)と同義だとして話を進めたい。
発達障害との類似点
ASPDと発達障害を比較してみると、両者にはいくつかの共通点がみられる。この共通点が僕を悩ませてきた理由でもある。
– ASPDにみられる衝動性の高さと無計画性は発達障害のADHDにもみられる
– ASPDにみられるしばしば嘘をつく特徴は発達障害にもみられる
– 共感性の欠如(のように観察される)も同様に双方に見られる
関心の方向の違い
まずASPDであっても発達障害人であっても、上述したようなエピソードの際に動揺を覚えないという点は同じなのだろう。もちろん発達障害人でも色んな人がいるから、人の死を前に動揺する人もいるだろう。
僕がたどり着いた結論だが、ASPDの関心は自己の外に向かっており、いっぽう発達障害人の関心はあくまでも自己の内側に向かう自閉的なものだということだ。
ASPDの関心とモチベーションはあくまでも自己の外にあり、いわば外界に影響を与えて変えようというものだ。
いっぽう発達障害の場合は関心はあくまでも自己の内側にある。上述した僕のエピソードにしても、関心はあくまでも自分の決めたルーティーンを守りたい、という内側に向かっている。
もしASPDの人なら、上述したエピソードの場合にどのような行動を取るだろうか。その機会をなんとか自己の利益のために使おうとするのではないかと僕は思う。現代であればSNSや動画投稿サイトがあるから、日常におけるレアなイベントをシェアすることは注目を集めたりカネを生むことがある。
たとえば、あまり知能の高くないASPDの場合なら「いいね」や動画の広告収入を目当てに、遺体を前に記念撮影をしたり実況中継をしたりして、世間から厳しい非難を受けるのではないだろうか。あと、これは完全に余談だが、演技性パーソナリティー障害や自己愛性パーソナリティー障害の人もまた異なった行動を取るのかもしれない。
僕はそのような行動にはまったく関心がない。僕は自分の行動が外部からの働きかけの影響を受けて、変更を余儀なくされたりすることが何よりも嫌いなのだ。普段どおりに行動したいのだ。
さらに、これは道徳や倫理の問題ではない。そんなわけで、もし当時インターネットやスマホがあったとしても僕は表情ひとつ変えることなく、いつもと同じようにバイトに向かっただろう。
最後に、ASPDの当事者は苦悩を訴えて精神科医療や心理カウンセリングに救いを求めることはほぼなく、そのため医療のまな板に乗ることはない、ということは僕が実際に医療従事者などからしばしば聞いてきた話だ。