プロフィールのページにも書いてあるが、僕は発達障害で、その中でもASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠陥・多動性障害)の両方が併存しているタイプだ。
今回の記事ではそんな僕が、発達障害者ではない定型発達者の立場に立って、発達障害者と結婚するとはどういうことかについて、書いてみたいと思う。
はじめに(父について)
まずはじめに、僕は結婚したことが一度もないので、発達障害者の結婚というものがどういうものかは正直なところよくわからない。そこでまず父と母の話をしたい。
父はおそらく強度のASDだったと僕は考えている。僕が知る限りのASD、かつてはアスペルガー症候群という名前で呼ばれていた特性がもつ特徴の多くに父のそれも当てはまるからだ。
なお、おそらく、というのは、僕の父は昭和ひと桁生まれで、発達障害の概念が周知のこととなった2010時代にはすでに後期高齢者だったから、発達障害というのも正式な医師の診断を受けたわけではないから、これはあくまでも僕の推察にすぎないという意味だ。
さて、その父はどんな人だったのかというと「非常な変わり者」とでもいうべきだろう。父は地方公務員だったので残業はないらしく、いつも暗くなる前に帰ってくるのが常だったが、家の前で遊んでいた僕に言葉をかけたり、目配せを返したり、笑顔を浮かべるようなこともせず、ただただ黙って表情を変えることすらせず、僕の横を通り過ぎて家の中に入っていく。
しばらくすると作業着に着替えた父は、ただ無言で家庭菜園に取り組むのだった。夜でも作業ができるように工事現場で使われるような投光照明をともし、一心不乱に農作業のまねごとに没頭する。一応断っておくが、僕の家は兼業農家というわけではなく、父のそれはあくまでも趣味の家庭菜園に過ぎないのだ。
一度没頭してしまうともうほかのことは目に入らないらしく、近所の人が煌々と照らされた庭の畑で黙々と作業する父の前を通り過ぎながら「ご精がでますね」などと声をかけても無視するのが常だった。
僕は父に「おかえり」などといっても意味がないと理解し、そのうち言わなくなった。同様に近所の人たちも父に声をかけることはしなくなったのだろう。余談だが、発達障害者が孤独になっていくプロセスをここに見ることができると僕は思っている。
念のため伝えておきたいが、父は普通に「会話で情報をやりとりする」ことはできる。ただ、これは少々、抽象的な表現になってしまうが「心を通わせる」ことができないということだ。僕は父が我を忘れて怒りをあらわにしたり、なりふりかまわず悲しんで涙を流したりといった場面にはとうとう一度も出くわしたことがなかった。
母について
いっぽう母はどんな人で何をしていたのかというと、専業主婦だった。ほかの記事でも書いたかもしれないが、僕は母から虐待を受けて育った。僕は母をいわゆる「毒親」だと認識して、毒親と戦う自分という自己像を持ち、両親とりわけ母と戦う気持ちを持ち続けることを力にして生き延びてきた。
だがそんな父も母もこの世を去った。それから僕は47歳の時に発達障害と診断されたわけだ。
自分が発達障害と診断されたことで、僕は父と母の僕の物語について、別の視点から解釈することを余儀なくされた。おそらく母は「カサンドラ症候群」だったのだと思い至った。
子供への虐待はいかなる理由があれども許されることではない。ただ、もしかしたら発達障害の夫と息子を持った母は、かわいそうな、気の毒な側面もあったのではないかと。
母は専業主婦で友達らしい友達もおらず、夫とも子供とも心を通わせることができず、孤独の中でもがいていたのではないだろうか、と。
発達障害者と結婚するとはどういうことか
さて今回の記事の本題だが、発達障害者と結婚するということはどういうことなのか。発達障害者と一口に言ってもそれがASDなのか、それともADHDなのか、あるいはLD(学習障害)も併存しているのかによって個性も多種多様なので簡単に考えるのは難しい。なので今回はすべての発達障害に共通してみられる「共感の欠如」に焦点を当てて述べてみたい。
あなたのパートナーは、あなたと何十年と共に暮らしても、あなたは何か違和感というか、心が通じ合っていない不安感を感じるかもしれない。あるいはあなたはパートナーと共有する人生のごく初期の段階で心を通わせることを諦めてしまうかもしれない。それはあなたのせいではないし、誰にも自分の心を守る権利があり、それは誰からも責められるようなものではない、と僕は思う。
あなたがパートナーに、あなたのことを愛しているかどうか尋ねたとする。もしパートナーが「わからない」と言ったら、それは最高に誠実にな答えだと受け止めて間違いないと思う。わからないから答えようがない。人と心を通じ合わせて愛し合うということが、どのようなものであるかがわからないのだ。
もちろん、それらしい言葉でごまかすこともできるかもしれない。しかし「わからない」と言ったならそれだけは紛れもない真実で、心底、彼や彼女らが心の中を吐露した結果の言葉なのだ。これは相手のことを信頼していなければできないことだろう。もっとも信頼というのもまた発達障害者にとっては、ふわふわとした雲をつかむようなおぼろげなものなのだが。
そして、何十年かを共に連れ添って同じ時間を過ごし、人生の多くの荒波を乗り越えて年老いたあなた方だが、不幸にもあなたの方が先にこの世を去ったとする。
あなたのパートナーはそのとき、悲しみを感じないかもしれない。あなたの通夜や葬式でも退屈を感じ、早く自分の世界に没頭したいと思っているかもしれない。それはガンプラ作りかカメラの趣味か編み物か、はたまた家庭菜園かもしれない。
連れ合いが亡くなったにもかかわらずそんな態度のパートナーを見て、周りの人はあなたのパートナーを責めるかもしれない。でも何十年もその彼や彼女と連れ添ったあなたなら知っているはずだ「それがこの人なのだ」と。
そしてパートナーはその後一人で過ごすか、あるいは幸運にも次のパートナーを見つけ、あなたではない別の人と新しい生活をスタートさせるのかもしれない。
そのときにふっと、彼や彼女らはあなたを失った悲しみを知るのかもしれない。人知れず誰にも見られていない場所で涙を流すのかもしれない。
今回の記事が、発達障害を抱えるパートナーと結婚を考えている人に何らかのヒントになれば幸いだ。